『大きな学力』 さまざまなドラマ
『大きな学力』に描かれた群像、そして群像が呼び起こすドラマ

  『大きな学力』にはさまざまなドラマが描かれています。『大きな学力』に描かれた群像には、困難な状況を成長・飛躍へのチャンスに変えるヒントがちりばめられています。

 『大きな学力』に描かれた群像は新たなドラマを呼び起こしています。『大きな学力』によって、救われ、励まされた人たちによって、新たな「大きな学力」のドラマが次々に生み出されているのです。

 ここでは『大きな学力』に描かれた人物たちの“生きる姿”と、そこから生まれた“新たなドラマ”を少しだけ紹介します。

 『大きな学力』の群像と、新たなドラマの紹介
      −1は『大きな学力』に登場するドラマ、−2は『大きな学力』が生み出した新たなドラマ

I −1 [自主活動で帰宅が遅く、母親からいつも小言をいわれていた女子高生]  母さん、それはちがうぞ
                                            ―――市邨学園の米津美希さん

I −2 [上のドラマが新たなドラマを生み出しました]  クラリネット・ソロに感謝をこめて

II −1 [いじめられっ子だった青年が24歳で定時制に入学]  通知票「ほとんど1」で名大に合格

II −2 [『大きな学力』弁論大会で感動を呼んだドラマ]  名大に合格した元暴走族のリーダー

III−1 [映画『翼は心につけて』の鈴木亜里さんと同じドラマ] 娘がすくわれました

IV−1 [ひとつひとつ壁を越えて]   耳の聞こえない人間に生まれてよかった
                ―――卒業式の合唱構成詩に3年間の高校生活の思いをこめた原千賀子さん

V−1 [高校生フェスから受けた触発]  つらさがあってこそ感動がうまれる
                                         ―――南山高校(男子部)佐治嘉隆君

V−2 [4・29私学デーで踊った群舞]  夢中になることの楽しさ
                            ―――第2回「大きな学力弁論大会」に出場した岡本舞さん

VI−1 [無条件の共感]  不思議な力をもったシスター アンジェラ

 
I−1[自主活動で帰宅が遅く、母親からいつも小言をいわれていた女子高生]
          母さん、それはちがうぞ    ―――市邨学園の米津美希さん

 愛知県には、「高校生フェスティバル」という、「学校」をこえた高校生の世界があります。
彼女は90年度高校生フェスティバルの企画局長であり、バラエティ企画のチーフでもありました。ところが本番二日前に、部局会議がもめて下級生の委員がリハーサルをボイコットします。彼女は絶望的になり、顧問の教師の説得を振り切って泣きじゃくりながら帰ります。ズタズタの心で深夜帰った彼女を待っていたのは母の怒声でした。
「今何時だと思っているの。高校生の帰る時間じゃないでしょ」。
彼女はいっそう悲しくなります。誰もわかってくれない。「もうフェスティバルやめるからいいでしょ」とまた泣きます。「やめればいいのよ。こんなに遅くまで・・・」と追い打ちをかける母の言葉。そのとき、滅多に口を出さない父の声が母の言葉をさえぎったのです。
「違うぞ、母さん。今この娘は、本番直前に投げ出そうとしている。遅いことよりその方が問題だ。途中で投げ出すような娘にしちゃいかん」。
翌朝、机に母の手紙。「ごめんね、お父さんの言通り。いちばん大切なのはやり通すこと。なのに母さんったら・・・。頑張って。まだ二日あるわ。ここでやめたら一生後悔するわ」。
米津さんはまた泣きます。そして、下級生に必死に呼びかけ、前日にやっとリハーサルにこぎつけるのです。本番の朝、今度は机の上にリーガルの新しい靴と小さなメモがおいてあります。
「前から欲しいと言っていたリーガル、買っておきました。今日はこれを履いて頑張ってね。母さんたちも見に行くからね」。 
米津さんは言います。「いちばん嬉しかったことは、本番が成功したことよりも、みんなが団結して最後までやり通せたこと」。

I−2 [上のドラマが新たなドラマを生み出しました]
                         クラリネット・ソロに感謝をこめて

 この米津さんのことを安城学園のブラスバンド部顧問の吉見先生は、部員に語ってきかせました。
140人の部員は、日ごろ部活で遅くなり、親に小言を言われることもある自分たちの体験と重ねて聞きながら、最後の結末に、中には泣き出す生徒もいます。話が終わると、何十人という生徒が本を買い求めます。クラリネットを担当するある3年生は、『大きな学力』を一気に読み終えると、父親に渡します。彼女の家では小学生の妹が不登校と病気で入院、彼女も不登校の過去があり、両親は姉妹そろって不登校になったことに、親として自信をなくしていました。しかし、父は「自分が倒れたら家がだめになる」とことさら明るくふるまっていましたが、いつも背中は寂しそうでした。彼女と妹の関係もよくなかったのです。本を読み始めた父親の後ろ姿を彼女はじっとみつめます。「本を読み進む父の背筋が徐々にまっすぐ伸びていった。暗かった家に久しぶりにあかりが灯りはじめた」と彼女はクラブ日誌に書きます。それから彼女は病院にでかけ、妹に「中学時代、私も不登校だったと告げます。しばらくして妹が退院します。彼女は2月(97年2月)のブラスバンド部定期演奏会に『大きな学力』の著者の寺内先生を招待したいと提案します。定期演奏会当日、3年生にとっては最後の舞台で、客席にいる寺内先生に感謝をこめてクラリネットソロを演奏しました。

II−1 [いじめられっ子だった青年が24歳で定時制に入学]
                         通知票「ほとんど1」で名大に合格

 これは新聞でも写真入りで大きく報道された話です。山元延春君。小学校の頃、いじめられっ子。中学生になると少林寺拳法を始めます。夕方は道場に行き、夜は病弱の両親がやってるラーメン屋を手伝い、その後は午前3時、4時まで拳法の練習をする日々が続き、ついに県代表に選ばれます。こんな事情で勉強はおろそかになり、遅刻欠席も日常化。その結果、技術と音楽が2以外オール1。中学卒業後、大工の修行をし、工務店に就職。16歳で母を、18歳で父を病魔に奪われます。21歳の終わりに、同じ少林寺拳法の道場に通う別の工務店の娘さんがビデオを貸してくれます。『アインシュタイン・ロマン』でした。それをみて『これまでの自分は、時間と空間が不変のものだという自然観をもっていた。それにしてもこの宇宙と世界はなんとめまぐるしく変わり、深くて広いのか。もっと知りたい。そうすればもっと違った世界が広がるのではないか』と目を開かれたといいます。進学を思い立ったものの、九九のや分数の計算もままにならず、小学校3年のテキストから勉強をはじめ、24歳で豊川高校定時制に入学。入学後も、大工の仕事を続けながら、夜は授業を受け、帰宅後も深夜まで勉強しますが、時間がないうえに疲労がたまり、なかなかブランクは埋まりません。そんなとき、2年生の担任で、親代わりで面倒をみていた土田修一教諭が、同校の理科の実験助手にならないかと勧めてくれます。月収は3分の1になりますが、必死に勉強を続けます。そして、名古屋大学理学部を志望。センター試験では得意の物理は自己採点で満点。推薦入試の志望動機には、相対性理論の探求に向けた情熱を綴り、見事合格。27歳。いずれは宇宙物理学の研究者になると夢をふくらませています。後日談ですが、彼はビデオを貸してくれた娘さんとめでたく結婚とのことです。

II−2 [『大きな学力』弁論大会で感動を呼んだドラマ]
                         名大に合格した元暴走族のリーダー

 昨年の豊橋サマーセミナーの第1回「大きな学力弁論大会」で入賞した桜丘の緒方君  彼は中学時代、暴走族のリーダーでした。中学では体罰が横行していました。ときには教員の誤解でたたかれることもあります。学年主任に抗議にいった彼は「えらそうなことを言う前に、漢字の宿題をだせ」と注意されます。やり場のない怒りと悲しみを教師への反抗と周囲への暴力で紛らわす日々が続きます。卒業企画でCDをつくることになり、最後だけでもきちんとやろうと決意して歌を練習します。本番のとき、ある生徒がちゃんと歌っていないとうことで頬をたたかれ、最前列にいた生徒が全員たたかれます。ついに彼は切れてしまい、椅子を蹴り上げ、倒し、校舎のガラスをたたき割り、荒れ狂います。そんな彼を桜丘高校が受け入れます。入学後も学校内外を問わず暴力行為を繰り返します。ある日、久しぶりに会った友人が、男にからまれ、ナイフで刺してしまいます。「薬物中毒の彼はナイフの突き刺さった男を見下ろし嫌な顔で笑った。悲しく恐ろしく痛々しく、僕の心は引き裂かれた。心の中で救ってくれ、と叫んでいた。」そんな心の変化に気づいた担任が顧問をしている美術部に誘います。「部の中にも俺をこわがっている生徒がいるはずなのに、自分が一番大切にしている部にこの俺を・・。」ここから反転のドラマが始まります。「石の招き猫を彫る。一日たった5ミリしか彫れない。でも半年彫り続ける中で、今までにない充実感がわいてくる」。暴走していたエネルギーは学習と自主活動に向かいます。やがて学年のリーダーから、生徒会長へ。古典を担当している小林先生(『型破り教師一代』の著者)が、「どうだ、緒方、テストで百点とってみんか」と挑発します。「緒方はたいした奴だ。文句のつけようのない答案だった。あれ以来、毎回百点をとっている」 緒方君はそれまでの生活を振り返って語ります。「僕はたったひとつの優しさのおかげで暗闇から抜け出せた。中学時代の仲間はまだ荒れているが、心の内は孤独だ。今でも僕の所にやってきて、ポロポロ涙を流して泣いている。」この3月、彼は名古屋大学経済学部を受験し、見事に合格しました。

III―1 [映画『翼は心につけて』の鈴木亜里さんと同じドラマ] 娘がすくわれました

 杉浦満裕子さん。西尾東部中学2年の冬にリンパ腫と診断され、放射線治療もふくめ1年以上の闘病生活が続きます。そのために、途中で大府の養護学校に転校。高校受験が近づくと、お母さんの母校でもある安城学園を切望します。しかし、出席状況は通常の入試からいうと、基準に達しません。でも、安城学園では94年から定員15名の作文・面接だけの「特別推薦制」を導入していました。学校案内のパンフレットを手に入学を夢みた彼女は、手術を受けます。激しい治療とリハビリに耐えますが、試験を受けるまでには回復しません。この治療は本人だけではなく、支える家族にとってもハードなものでした。なんとしても高校に行きたい彼女は、家族を説得してもういちど手術をうけます。激しい治療とリハビリにもういちど挑戦するというのです。そして、ついに高校受験の日を迎えます。入学試験の日、彼女は別室で、学園が用意した腰掛けをあてて受験し、やがて合格通知が届きます。その1カ月後に病状が悪化、新入生説明会にはお母さんが参加し、教科書・制服・制靴・カバンなどを購入します。しかし、3月26日未明、「制服をきせて」「学校に連れていって」・・といいながら、息をひきとってしまうのです。その朝、お母さんとお父さんは彼女に真新しい制服を着せ、車に乗せてゆっくりと学園を一周され、教科書やカバンとともに彼女を荼毘にふされました。後日、ご両親が安城学園にお礼にみえました。「ありがとうございました。娘が救われました」と。入学式には、遺影となった満裕子さんも母に抱かれて出席。

IV−1[ひとつひとつ壁を越えて]   耳の聞こえない人間に生まれてよかった
  ―――卒業式の合唱構成詩に3年間の高校生活の思いをこめた原千賀子さん

 1998年2月21日、同朋高校。卒業式の第2部・生徒の手による合唱構成詩『希望』―――生徒のソロや学年合唱を含んで約40分にわたる構成詩が佳境にさしかかったとき、  お父さん、お母さん、「なんで私だけ耳が聞こえないの!」 朗読者の井上綾乃さんが絶句、言葉になりません。すかさず、会場から「ガンバレ!」「がんばって!」のかけ声。「お母さん、お父さん、『何でわたしだけ耳が聞こえないの!』と何回も泣き叫んだ。けど高校に入ってから、いろんなことをいっぱい経験して、今では『耳の聞こえない人間に生まれてよかった』と思っている。一つ一つ壁を乗り越えながら、みんなと共に生活することができて、私はすごく幸せ者だと思っているよ」。会場のあちこちからすすり泣きが聞こえ、教師も泣いています。その中に、構成詩が始まった瞬間からあふれる涙をハンカチで拭いながら舞台を見つめている一人の生徒がいました。原千佳子さんです。井上さんが朗読したこの部分は原さんが3年間の思いを綴ったものでした。3年前、中学まで聾学校に通っていた原さんは、「耳の聞こえる世界にどうしても出たい」と思い、「無理だ」という周囲の反対を押し切って普通高校を志願。その熱意に打たれた同朋高校が門戸を開いたのです。しかし、それは原さんにとって苦闘の始まりでもありました。授業は先生のくちびるの動きで言葉を読み取る読唇術と板書でなんとか理解しようとしますが、わからないこともしばしば。特に早口の教師や外国人講師のオーラルコミュニケーションでは悩みます。そんな時には、友達からノートを借りたり、教師に「こちらを見て、ゆっくり話して」と何度も頼みました。それに応えて、原さんの顔が見える位置で口元が分かるように授業をすすめる一人一人の教師たち。困ったことや悩みを綴った担任との交換ノートは10冊を越えます。原さんはいいます。「つらかったことも、無理して笑ったこともいっぱいあった。でも、友人や先生たちの"がんばれ""応援しているよ"という笑顔が励みになった。一つ一つトライしていけばできる、ということをこの3年間で教えてもらった」と。卒業式の直前、井上さんが「先生、原さんはこの2年間、卒業式でつらい思いをしてるんだよ。舞台が遠くて朗読者の口が読めないから、何を言ってるかわからないって」。このつぶやきをキャッチした教員が福祉同好会に手話通訳を依頼します。この卒業式の様子は新聞も「障害を越え、巣立ち」と大きく報道。どの記事も原さん自身の言葉で締めくくっていました。「もし、耳が聞こえていたら、障害をもつ人の苦しみは理解できなかったかもしれない」「楽しい3年間だった。将来は友達が自分を支えてくれたように、今度は自分が障害者を支える仕事につきたい」そう笑顔で語ったと。

V−1 [高校生フェスから受けた触発]  つらさがあってこそ感動がうまれる
                         ―――南山高校(男子部)佐治嘉隆君

 生徒が主体者になった時、それが一人の生徒であっても、学校全体を活性化させる場合があります。高校1年の時、担任の教師に「高校生フェスティバルを一度みてきたら」と言われて顔を出します。たまたま『生徒会交流』に出て、ショックを受けるのです。「こんなにもいろんなことに関心をもち、こんなにも真剣に討論する高校生がいたのか」。「自分にも、何かできることがあるのではないか」と。やがて、学園祭が来ます。彼は、「チマチョゴリに対する暴行、大学入試の差別」の新聞記事を握りしめて、クラスや友人に訴え、有志10人で「アジアを考える会」を発足させます。さらに、1年生でありながら生徒会長に立候補します。公約はただ一つ、「主体性あふれる学校をめざす」です。「僕たちは、まだ気づいていないことがいっぱいある。もっと体験を積もう。そのために、生徒自身が自主的に主体的にいろいろ体験できる場をこの学校につくりたい」。そして意外にも当選します。「あれくらい硬派、気骨のある奴にやらせないと、この学校はだめになる」という空気が、3年生に広がったからです。高一で生徒会長になった彼は、制服自由化運動に着手します。25年ぶりの生徒集会では、64.2%の賛成を得て、制服自由化要求を決議し、学校当局に要望書を提出。年度がかわって、彼は「ここまでやったから」と生徒会長を降りようとしますが、「まだ実現していない」とみんなに激励され、2年生の前期も後期もやることになります。『アンケート』だけではもの足らず、クラス討論を起こし、文化祭では『制服自由化のディベート』をメイン企画とし、生徒に公表。ところが、その時「事件」は起こるのです。実は制服自由化については、生徒会の要求を受け入れて、すでに、4月の職員会議で決定され、「当分は守秘」ということになっていました。学校としては、いまさら賛否両論のディベートは困るのです。そこで生徒会役員にだ け、「もう決めていた」と告げます。ところが何も知らされないまま、けなげに運動を続けてきた生徒会執行部は、教師が帰ったあと、椅子をけとばして、やり切れない怒りをぶつけたのです。佐治君は叫びます。「俺は制服自由化はどっちでもよかったのだ。ただ、みんなが自主的に主体的に参加する場をつくりたかったのだ」と。佐治君が、高校生フェスティバルの座談会で、感動体験について話し合ったとき、言った言葉は「感動にはつらさが必要である」です。「自分は制服自由化をやるときにアンケートを取ったら、佐治死ね、佐治死ねと書いてあるのがいくつもあった。しかし、嬉しかったことは、制服自由化をしたことではなくて、運動を進めるなかで、佐治死ね、という言葉がなくなっていった。それが感動だ」と。

V−2 [4・29私学デーで踊った群舞]  夢中になることの楽しさ
           ―――第2回「大きな学力弁論大会」に出場した岡本舞さん

 4月29日の私学デーに「群舞」と美化のパートリーダーという二つの任務を担っていた聖霊高校1年の岡本舞さん。「私は人より覚えるのも、体を動かすのも苦手だったので、とても大変でした。最初、軽い気持ちで友達と始めたのですが、練習していくうちに私にとってはとても重い、それでも大切な存在になていきました。始めた時ははっきり言って「いやな存在」でした。なぜかというと、一緒に始めた友達はみんな踊れる様になっているのに、私だけ全然踊るようにならないのです。別に練習をさぼったわけでもないし、家に帰ってからも一生懸命練習しているのに・・・リズムに体がついていかない、動かない・・・。そうしている間にも後から始めた子までも踊れるようになっていく・・・。しだいに頭の中で「もうやめたいっ!」という思いが着実にふくらみ始めました。しかし、忙しいのに今まで熱心に教えてくれた先輩や友達に申し訳ない、全然踊れるようにならない私にも、わざわざ時間をさいて教えてくれたのにここでやめたら今までの努力が水の泡になってしまう、そう思うとやめることができませんでした。そして、初めて踊りと太鼓を合わせる日が来ました。私はびっくりしました。太鼓に合わせて踊る中で、空気が震えるのを感じたのです。本当に凄い迫力でした。そして、その時を境に今まで苦痛だった踊りが楽しくなり、「もうやめたい」という気持ちは消え、「かっこよく踊れるようになりたい」という気持ちに変わりました。その時、初めて私は夢中になれる物を見つけました。そんな私の気持ちも含め、みんなの気持ちが一つになり、群舞は大成功でした。愛知県体育館にはそれぞれみんなの《思い》がいっぱいにたちこめ、お招きしていた議員の方々を見つめる目にも力強い気持ちを表すことができました。しかし、まだ私の中には大きな感動はなく、「終わっちゃった・・・」という少し残念な思いしかありませんでした。そして最後に行われたフィナーレで「よくがんばったねー」と、見に来てくれた友人、一緒にがんばってきた仲間、先生など大勢の人々に言ってもらった時、初めて「認めてもらえた」という安心感と仕事をやり終えた達成感で、胸がいっぱいになり、自然に泣けてきました。そしてその時、実行委員長の春日井さんが言った言葉、「今、自分の隣にいるやつの顔を覚えておいてください。そいつらは一生、あなたの仲間です。」 この言葉は今でも忘れることはできません。たぶんこれからも一生忘れられないと思います。それだけその言葉は印象的でした。そんなみんなの姿を見てきて、私はまた、大きな発見をしました。それは何かというと、先生に言われて強制的にやらされているからではなく、自分たちが「やりたいんだ!」という気持ちを持てば、こんな大きなことができるんだ、ということです。一人一人の気持ちが大きく、してまとまっているからこそ、こんなにも大きなことができたんだと私は思います。こんな仲間の中にいられて私は今、すごく幸せです。なによりも夢中になることの楽しさを教えてくれた仲間に感謝しています。

VI−1 [無条件の共感]  不思議な力をもったシスター アンジェラ

 かつて聖霊学園に、教員の免許がないために、図書館の仕事や寮監をしていた目立たないシスターがいました。当時の校長が彼女を特別に取り立てて、「相談係」という仕事につけます。相談室には、宣伝したわけでもないのに、いつの間にかどこかを病んでいる生徒たちが集まりはじめます。あるときは絵を描くだけで帰る生徒や、またあるときは遊び感覚で訪れ、おしゃべりして帰る生徒も。そんなとき、シスターはただニコニコ笑ってフンフンと相手をしているだけです。何をしても許される場所になっていました。そうこうするうちに、涙を一杯ためて苦しみを告白する生徒、思いを抑えきれずに、暴れだす生徒も出始めます。泣いているのは生徒ばかりではなく、シスターの大きな目からも涙が溢れています。ともに泣いているのです。優しいばかりかと思うと、ときには生徒のカバンが吹っ飛ぶこともありました。生徒は、その迫力に震え上がって、シスターに畏敬の念を抱き、シスターにだけは認められるような自分になりたいと思うのです。手に負えない寮生がいました。その寮生に、「シスターアンジェラに言うよ!」というと、「それだけはやめて!」「あのシスターだけは裏切れない」というのです。シスターと話をすると生徒は5分ぐらいで泣き出します。「人間のひっかかっているもっとも悲しいところを、さっとひきあげてくる」のです。ある先生が「どうしたらそんなにこどもたちの心がわかるの?」ときくと、アンジェラは「善悪をおしつけるのではなく、まず受け入れなさい。あまやかすこととは違います。一番厳しいことを迫るためなのです」「子どもたちの奥にあるものを実感としてつかみなさい」「中途半端はだめ」といいます。たとえば、家出生徒がいると、夜中にでも電話がかかってきて「すぐ生徒をさがしなさい。今夜中に捜さないと、大変なことになるわよ」。電話を受けた教師は徹夜で生徒を探します。「シスターは無理なことを要求すると思っても、不思議な事に朝までにみつかるのです」
 シスターは自ら「不良修道女」といって憚りません。何ものにも縛られない自由な人です。シスターだからお祈りの時間というものが決められている。その決まりにすら縛られたりしない。相談の途中にお祈りを優先させて、話の腰を折ったりしない。厳しいシスターの戒律を守っているとは思えない。ビールも飲むし、人の家に泊まったりもする。だから他のシスターからみると、けしからん存在になる、はみ出し者なのです。何年か前、シスターは秋田への転勤を命じられました。悔しくて泣いていたそうです。教師たちは「扇の要」を失って愕然としますが、彼女が自分のために流す涙を初めて見た、といいます。

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