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社会の常識やルールに対し、疑問を持つことをいつも忘れない


■事業の概要
◆NPO法人「名古屋NGOセンター」
1988年設立。NGO団体が情報共有するためのネットワーク形成を活動目的とする。1993年5月の「アジア市民フォーラム」、1994年11月の「第3回全国NGOのつどい」開催を経て、2000年に特定非営利活動法人格を取得。

◆財団法人「アジア保健研修財団」およびアジア地域保健活動ネットワークジャパン(ACHAN JAPAN)
1980年設立。各国のNGO団体と協力し、アジアの無医村・無医地域(まともな医療が受けられない地域、保健衛生状態が著しく悪い地域)を改善するための活動を行っている。活動地域はフィリピン、カンボジア、スリランカ、韓国など。また、研修には、アジア全域から参加者がいる。


山下さんは、10代をどのように過ごしてきたのですか?

私が10代だった1930年代は、日本はじめ世界中が戦争のまっただ中。日本の教育も今のようにゆとり教育や受験のための教育といったものではなく、「天皇陛下のため…」という教育がなされていた時代だったんだよ。戦争で死にゆく兵士たちが最後に「天皇万歳!」と叫ぶような時代。そんな環境で育ってきた私は、15歳で志願兵として海軍へ入隊したんだ。そこで上海航空隊へ配属され、2年後の8月15日。私は17歳にして上海にて終戦を迎えた。その時にまず考えたのは「日本に戻ったら何をしよう」ということ。海軍に志願し、戦争を経験した私は、戦いの中で国家が中心となって進めていく政治や外交に対し、国民の気持ちは?それが最善の方法なのか?と疑問を抱くことが多かった。だからこそ終戦と聞いたその時、貧しい人や体の不自由な人…差別されている人の立場にもっと近づいて物事を考える社会に変えていきたいと思ったんだよ。そして、帰国後、私は大学へ入学し社会福祉を専攻。戦争を生き抜いた10代で、私は社会に対して疑問を抱くことの大切さを学んだ。そして、戦争でゼロになった場所から、みんなが本当に生活しやすい世界を作っていこうと気持ちを決めたんだよ。

大学で社会福祉を勉強されて、実際に活動してみて感じたことは何ですか?

戦争で“FOR:〜のために”という国の一方的な政策に直面した私が、戦後の社会に求めたのは“WITH:一緒に”という共に作り上げていく社会だった。そのために私は大学で勉強し、大学院卒業後はYMCAに就職した。そこで、養護学校、大学生のボランティアに働きかけ、今から50年前に肢体不自由児のためのキャンプを日本で初めて行ったんだよ。肢体不自由児に着目したのは、大学のあった京都の風習がきっかけだった。当時の京都では、肢体不自由児は家の外へ出ることがほとんど許されていなかった。家の者が自分たちまで差別されることを恐れ、また我が子が差別されることを避けるために家の外に出させなかったんだよ。そんな彼らにキャンプなどの共同生活はどういう影響をもたらすのか。実際、キャンプをしてみると、周囲からは障害の重度に関係なく「障害者」として一括りにされてしまう彼らも、互いに助け合って生活していくことができたんだ。互いに足りない部分を補いながら、彼らはキャンプを楽しんでいた。誰か守る人がいないと生活できないと思われていた彼らが、自分自身の力で生活できたんだ。その時、私は「誰かを守るための法案」よりも「社会的立場の弱い人と一緒に作り上げる社会」の大切さを実感したんだよ。

国内での活動が、なぜアジアでの活動へと結びついたのですか?

マーティン・ルーサー・キングの“I have a dream”に私は深い感銘を受けたからなんだよ。1963年、アメリカに留学していた私は、たまたまマーティン・ルーサー・キングの生演説を聞くことができたんだ。黒人というだけで社会に差別され続けてきた彼が、多くの民衆を前に“I have a dream(それでも私には夢がある)”と自分の気持ちを放った。社会の関心が一市民ではなく、しいたげられて差別されてきた人達へと向いた瞬間に直面したんだ。それまでの日本だけを見ていた社会作りから世界を見つめる視野を持って、帰国後から国外に向けても活動を始めたんだ。幸いにも、留学経験によって英語が話せるという利点があったので、帰国後は海外の事業に数多く携わる機会が与えられたんだ。

国内外で活動した山下さんが、
NGOのネットワーク作りをしようと思ったのは何故ですか?

国内外問わず、地域にはさまざまなNGO団体がある。だけど、NGO団体は点在するばかりで相互ネットワークができていない。ネットワークが作られていないがために情報の共有ができず、せっかくの活動が空回りしてしまうこともある。様々な活動を通じて、点在するNGOの活動を見てきた私にとって、NGO団体の現状は非常にもったいないものだった。点在し、多方向へ向いているNGO団体の思いが、ネットワーク形成によって協力し合えば、それは莫大な力となり社会を変えていくことができるのではないのか。そういった思いから私は、名古屋NGOセンターの活動であるNGO間のネットワーク形成に参加したんだよ。今、手掛けているアジア地域保健活動ネットワークジャパン(ACHAN JAPAN)もNGOのネットワークがあるからこそ活動ができるんだ。日本では当然のものとして受けることのできる医療も、一歩国を出ればそれが凄く恵まれていることなんだと分かる。実際に世界中で医療を受けることのできる人はたった15パーセント。ほかの85パーセントの人達は無医地区、無医村と言われるまともな医療を受けることができない地域に住んでいるんだよ。だから私たちは今、大学を作り、医療や法律の地盤を固め、少しでも多くの地域がまともな医療を受けることができるように活動しているんだ。これらの活動も国内をはじめアジア各国のNGOとのネットワークがなければ実現しなかった活動なんだ。だから、点在しているNGOのネットワークを作ると言うことは非常に重要なことなんだよ。

今、学生である僕たちにとって大切なことは?

社会に対して疑問を持つこと。国が打ち立てた政策、まわりが基準にしている常識…それは本当に自分たちの社会にとって、生活にとって必要なことなのか。法を施行した後で、そのしわ寄せが社会的立場の弱い人に押し寄せないか。自分や周りが当然のことだと思っているものに対して、疑問を抱くことを忘れないでほしい。そして、思ったことは一人で抱えていないで言葉や行動に表すこと。何事も間違いなんてないんだよ。だから、行動して成功を掴むことよりも、行動を起こして挑戦することに意味があるんだ。社会問題だけじゃなく、自分自身についても同じ考えを持ってほしい。何かやりたいことがあったら、ぶつかっていくという精神が大切。試行錯誤してみれば、初めて学ぶことや、知らなかった世界が見えてくることもある。大切なのは、常識やまわりが決めたことに疑問を持って、思うことがあったら全力でぶつかっていくことなんだよ。



■プロフィール

NPO法人「名古屋NGOセンター」理事長
アジア保健研修財団理事
山下政一さん

1928年愛知県生まれ。幼少の頃は天皇中心の教育を受け、10代で戦争を経験。敗戦後は、同志社大学に進学し社会福祉を専攻。同大学大学院卒業後、YMCAに就職。その後、渡米やアジアへの派遣など、さまざまな経験を通して医療のない貧しい地域の現状を知り、アジア各国のNGO団体と協力し合いアジア研修財団の設立を手掛ける。

●15歳
志願兵として海軍入隊、上海へ
●17歳
日本敗戦
●19歳
大学入学、社会開発専攻
●25歳
青少年団体勤務
●41歳
「難民救援・農村復興活動」責任者として勤務
●60歳
カンボジアにて活動
●現在
アジアの無医地区を減らすべく、アジア研究財団にて活動

■インタビューの感想

岡本聖吾くん
同朋高校1年

一見とても真面目で厳格そうな感じだった政一さんは、実際お話を聞いたら、とても気さくで冗談好きな楽しい方でした。それと同時に、とても勇気と発想に富んだ人だと思いました。政一さんがこれまで歩まれてきた道のおかげで、下肢障害を持つ僕が同様の障害を持つ人達と交流することができる(※1)。その第一歩を作ってくださったから、今日のバリアフリーがあり、僕もこうして一人で活動することができる。それがわかってとても良かったです。取材するところも見られ、大変よい経験ができました。今日の経験を、これからに活かして僕も自分自身の道を歩んでいきます。

※1)山下政一さんは上記活動以外にも、NPO法人「アジア車椅子交流センター」理事も務めていた。

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