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■事業の概要
◆社会福祉法人「むそう」
1999年8月、「むそう」の原型となる「ふわり」を開始。2003年8月、社会福祉法人の認可が下りる。養護学校の卒業生が働ける場所作りをと、喫茶店やラーメン屋、養鶏所などさまざまな事業を行う。障害をひとつの個性として捉え、その個性にあった事業を生みだし仕事を任せる。地元の養護学校の生徒300人中60人が卒業後に「むそう」での就職を希望したほどの人気ぶり。
戸枝さんはどのような家庭で育って、どのような学生時代を過ごしたのですか?
僕はね、7人兄弟なんだ。みんなすごく仲が良くて、家にはそれぞれの友達が集まってくるし…。朝起きると兄弟の友達がうちの食卓で納豆食べてるなんてことも日常茶飯事、すごくにぎやかで楽しい家だった。反面、大変なことも少なくなかった。7人も子どもを産んでおきながらうちの母は病弱だったし、しかも中学の時は親父が入院しちゃうし。僕は7人兄弟の3人目だったけど、長男でもあったから「俺がこの家を守る!」という使命感で夜は枕元に木刀をおいて眠ってた(笑)。学校にはろくに通ってなかったなぁ。中学の時は遅刻ランキング2位!高校の時は、進学したことを後悔したほど授業がつまらなくて(笑)さぼってばかりだった。けど、試験だけは真面目に受けていたよ。特にきらいな先生…つまり授業をさぼってばかりいた教科ほど頑張って勉強した。授業を受けていないのにいい点取られたら先生も「自分の授業ってなんだ?」ってなるでしょう。そのために頑張ったんだ(笑)。中高通して、あまり学校へは行かなかったけど、勉強はできたし、クラスでもわりと人気者だったんじゃないかな。
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なぜ大学で社会福祉を専攻されたんですか?
中学の時に生活保護を受けていた時期があってね。当然のように給食の集金袋は飛ばされるし、周りが小声で嫌みを言っているのも耳に届く。そんな中、僕は「こんなに一生懸命生きているのに何で差別されなきゃいけないんだ」っていう強い思いを抱いた。友達にはそんな素振りを見せないように、冗談言ったりおどけたりして隠していた。けど、心の中では差別されたことで「何で僕は生きているんだろう」とまで考えてた。答えを探して本ばかり読んで、1年で200冊以上は読んでたかな。心理とか宗教だとかね。だけど答えは見つからなかった。僕が大学へ行って社会福祉を学ぼうと決めたのは、高校の先生と進路について話していた時。高校を卒業したらどうするんだ?と聞かれて、「日本は高卒でも十分食べていけるし、頑張って働けば家だって買える国だ。だから俺は大学へは行かない。働く」って答えた。そしたら、「何かやりたい仕事があるのか?」って聞かれてね。でも、特になかったんだよ。その時に、「やりたいことが社会にないなら大学へ行った方がいい。確かに高卒でも生活していくことはできる。だけど、大学を卒業したかしていないかで、やれる仕事の幅の広さ、自分の可能性は格段に違ってくるのが現実だ」って言われたんだよ。僕は合理主義だから、その言葉はすごく説得力があった。それで大学へ行こうと思い、自分が差別されてきた理由を知るために社会福祉を専攻したんだ。
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福祉の中でも、障害者福祉に携わったのはなぜですか?
理不尽に思えることでも、誰かが「やってみろ」と言うことには意味がある。そう思うから僕は、何でもとりあえずやってみる。理不尽な福祉に対してもそれは同じで、きっと何か理由があるんだろうと思った。だから答えを知ろうと、いちばん厳しい福祉の現場に足を突っ込もうとした。人が生まれて、死ぬまでをみることができて、大変な仕事…つまり、障害者福祉に携わろうと。「社会的弱者に対する福祉、その基本は障害者福祉にある」と考え、僕は大学を卒業してケアワーカーになった。そこで働きながら僕は、障害者福祉の本質に疑問を感じ始めた。本当に大切なことは、山中の施設で障害者のケアをすることではなく、彼らが住み慣れた街の中に、彼らが働いて生活できる環境を作ることなんじゃないかって。知的障害で大変なことは、先のことを考えて行動することが苦手と言うことなんだ。今自分が何をしたら、次はどんなことが起こるのか。健常者はそれができるけれど、障害者はそれが簡単にはできない。だから今の社会は彼らを別の環境へと追いやってしまう。だけど、先のことを考えて行動するっていうのは、痛い目にあったり失敗したり体験してみないと覚えることができない。障害があるから社会の中での生活は無理だなんていって追い出してしまっては、彼らが体験する場所さえもなくなってしまう。それが今の社会なんだ。だから僕は、ケアすることではなく、社会作りをすることで障害者福祉に貢献していこうと決めた。
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どのような活動から社会作りを行っているのですか?
障害者とひとくくりにしても、いろんな人がいる。大人数の障害者を相手にしているだけでは単に「ケアの対象」になってしまって個性が見えにくくなる。だけど、個人個人に目を向けてちゃんと見てみると、水遊びが好きだったり飛び跳ねているのが好きだったり。健常者も障害者も関係なく、それぞれに好きなことや個性がある。だから僕は、その人たちが楽しんで仕事ができるように、その人の好きなことから事業を考えて、仕事を任せてる。水遊びが好きな人だったら洗濯は楽しんでやれるな、とかね。飛び跳ねているのが好きならニワトリの世話を任せられるな、とか。僕はその人の個性や好きなこと、楽しいと思うことから仕事を作りだしていくんだ。彼らが働きたくても働けなかった、生活したくても生活できなかった社会に、彼らの居場所を作っていく。普通の人と同じように働いて生活できる環境を作ることが大切なんだ。だから僕は、彼らが働く場所を社会の中に模索し続ける。社会において価値がないと言われる人が価値を見いだす環境作り。それが僕の役割なんだ。
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中学生、高校生へメッセージをお願いします。
相手の違うことを探すのではなく、そういう人なんだと受け入れることを大切にしてほしい。僕は、80歳でも3歳でも、自分と違う生き方やものの見方をしている人に出会えるとすごくわくわくする。人の個性にふれることが楽しいんだ。障害者だって同じでね、障害もその人の個性のひとつなんだから、「ああ、この人はこういう人なんだ」ってあるがままを受け入れる。違いを探して人間関係にボーダーを作るんじゃなく、個性を受け入れてボーダレスに生きていくことが大切なんだ。そのためには、学校の中だけじゃなく外の世界にも目を向けることが必要になってくる。いろんな人がいるからね。僕は学校へはろくに通っていなかったけど(笑)、近所におもしろいおじさんがいると聞けば会いに行ってた。特に大人に相談したり議論すると、自分と違う考え方を得られるから楽しいんだよ。みんなも、自分がおもしろそうと思ったことはどんどん行動してみて、もっといろんな考え方、価値観にふれて、人との違いを楽しんだらいいと思うよ。
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社会福祉法人「むそう」代表理事
戸枝陽基さん
1968年群馬県生まれ。7人兄弟の長男だったため家族を守るという使命感にあふれた学生時代を過ごす。また生活保護を受け「差別」を感じる機会が多かった。大学では社会福祉を専攻し、障害者福祉に出会う。卒業後はケアワーカーとして現場で働き、ケアよりも障害者が生活できる環境作りの必要性に気づく。現在、障害をひとつの個性として受け止め、個性にあった事業かを立ち上げ、障害者が働ける環境を生みだしている。
▼0歳
群馬県生まれ
▼14歳
一家の大黒柱として家庭を守ろうとしていた
▼17歳
高校生の頃は授業をさぼりがち。唯一、部活には通った。試験では、嫌いな先生の担当教科ほどムキになって勉強。先生の教え方を否定するために頑張っていた。また、読書が大好きで「自分が生きている理由」を知るために、1年間で200冊以上も読んでいた
▼18歳
日本福祉大学へ進学
▼22歳
社会福祉事業団に就職し、ケアワーカーとして働く
▼30歳
NPO法人「ふわり」を立ち上げる
▼現在
社会福祉法人「むそう」理事長を務める
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岡本美紀さん
南山高校女子部2年
「理論家ではなく実践家でありたい。」
戸枝さんのその気持ちによって多くの障害者が輝ける場所を見つけていきました。人と同じ場所に立って考え、その人の個性を認めること。それは障害者に限らず、簡単にできることではありません。ニートや不登校が問題になっている現代だからこそ、お互いの価値を認め合うことが大切です。戸枝さんのように障害者が活躍できる場所を提供することは容易なことではありませんが、私達はまず偏見などを捨て、障害者と同じ人間として対等に向かい合うべきです。その行動が日本の福祉を良い方へ変えていく近道なのだと思いました。
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